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武蔵野航海記

武蔵野航海記

大王は神にしませば

大君は神にしませば赤駒のはらばう田井を京師(みやこ)となしつ

この万葉集の有名な歌は、壬申の乱で天武天皇が天智天皇の息子を打ち破った直後、天武天皇の将軍だった大伴御行(みゆき)が詠んだものです。

壬申の乱後、似たような歌が多く詠まれています。

大君は神にしませば天雲の雷(いかづち)のうえにいおりせるかも

大君は神にしませば水鳥のすだく水沼(みぬま)を皇都(みやこ)となしつ

大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海をなすかも

これらは、天武天皇が人間業とは思えない力を持っていると讃えている歌です。

実際、天武天皇は新しいことを次々と行いました。

壬申の乱で自分とは血統の異なる天智天皇の王朝を倒し新しい王朝を創設しました。

日本の国名を従来の「倭」から「日本」に改め、新しい王朝が出来たことを宣言しました。

「天皇」という称号を採用し、日本とチャイナが対等で従属国にはならないことを宣言しました。

チャイナは対等の国家を認めませんから、結果的に日本はチャイナやコリアと国としての付き合いをしないということになりました。

鎖国状態になったのです。

また日本を中央集権国家にする体制を作りあげました。

663年に白村江で見事に負けてしまったので、日本は朝鮮での権益を失っただけでなく、国の存亡の危機に直面しました。

朝鮮における同盟国であった百済が滅亡し、南半分は敵国である新羅が統一し、北半分は高句麗を滅ぼした唐の植民地となってしまったのです。

そして、白村江の大勝利の余勢を駆って唐・新羅連合軍の日本侵攻が当然予想されたのです。

敗戦の責任者であるアメ・タリシヒコの子孫は、倭王の地位を失いましたが、他の小国家群の首長達にとっても自分達の自国の存亡の危機でした。

そこで当時の小国家の首長達は、自分達の利益をある程度犠牲にしても日本を中央集権国家にして国力の増強を図ることで一致しました。

日本に初めて統一国家が誕生したのです。

中央集権化の具体策として、チャイナの律令制度を導入したのです。

チャイナの律令制度は、3世紀に北方異民族が侵入してお互いに抗争している時に、国力を高めようとして考え出された組織です。

この仕組みは隋・唐の時代に完成されました。

律令制度とは、律令という法律に基づいて国を治めていこうとする考えです。

その基にある思想は儒教という政治哲学です。

全てのチャイニーズは自分が中心にいます。

先ず自分があってその周辺に他人がいて、それぞれと人間関係を作り上げます。

一番大事にしなければならないのは、男系の先祖を同じくする宗族の利益です。

お互いに絶対的に信頼している者の利益も優先します。

自分との血縁関係・交友関係の濃淡に従って同心円を作っているのがチャイニーズの人間関係です。

こういう社会で徐々に国家が形成されていきました。

長い試行錯誤の中で、国家的要請とチャイニーズの道徳の統合が行われていきました。これが儒教です。

宗族を最優先する社会を治めていく立場の皇帝や官僚の政治哲学が儒教です。従ってこの儒教の信奉者は全体の極一部分です。

国家やそのほかの脅威に弱い立場の庶民が対抗するために出来たのが秘密結社です。

その秘密結社がよりどころとする宗教が道教です。

従って圧倒的多数のチャイニーズは道教の信者です。

歴代の王朝の建前は儒教ですが、圧倒的多数の庶民は儒教など相手にしていませんから、現実的には儒教とは全く違った政治が行われていました。

個々のチャイニーズと信頼で結ばれた交友関係を規定しているのが道教です。またオカルトによる現世利益を説いています。

この点、オカルトなどを相手にしない無神論の儒教とは異なります。

秘密結社は反政府的な存在ですから、蛇頭などの犯罪組織になる可能性をいつも秘めています。

儒教に話を戻しますが、儒教の中心となる概念は「天」です。

天は非常に道徳を重んじ、「聖人」を通してこの地上を道徳的にしようとします。

「聖人」は儒教の道徳を身に着けた人で、天はこの聖人を皇帝に任命するのです。

「天命」を受けた聖人は皇帝になって地上で道徳的な政治を行います。

この皇帝の政治を助ける官僚もまた道徳的でなければなりません。

チャイナの官僚は、宗教団体の僧侶に似た役割を持っているのです。
だから儒教も宗教とされているのです。

皇帝が悪逆でとうてい聖人でない時は、天は別の家系の男に皇帝になるように命令します。「天命」です。

このように別の家系に帝位が移るのを「易姓革命」といいます。

易姓革命は、ヨーロッパのレボリューション(革命)が社会体制を変えることを意味するのとは異なります。

儒教の社会体制を維持するために、皇帝の家系を変えることです。

皇帝や官僚が儒教の道徳に適っているか否かが、客観的に分るようになっているのが儒教です。

外見で判断できるようになっています。

親に対する態度・主君に対する態度・友達に対する態度など細かく決まっています。

親が死んだら何年間喪に服さなければいけないとか。その間してはならないことも決まっています。

宗族(男系の先祖を同じくする一族)の中で結婚してはならないというのも重要なルールです。

服装なども規定されています。

漢字が読め、儒教の古典を学んでいることも条件です。

極端に言えば、内心では何を考えていようと外見がルールどおりであれば道徳的なのです。これが儒教です。

チャイニーズにとっては宗族の利益が最優先ですから、儒教でも主君に対する義務と親に対する義務が矛盾した時は、親を優先しろと説いています。

皇帝に対する義務は、宗族に対する義務に違反しない範囲で果たせばいいのです。

儒教では孔子の次に偉い孟子に意地の悪い質問をした者がいました。

「皇帝の親が殺人を犯し逮捕されて、子である皇帝のところに連れてこられたが皇帝はどうすべきか」という問題です。

皇帝という責任ある立場にある以上、犯罪を犯したものは罰しなければなりません。

一方、子が親を罰することは道徳に反します。

「子である皇帝は、帝位を放り出し親と連れて逃げろ」というのが孟子の回答でした。

皇帝でなくなれば裁判をする必要はなくなるからです。

親を連れて逃げる元皇帝は、逃走補助の罪を犯すことになりますが、それより親を守るほうが大事だというわけです。

チャイナでは敵と激戦をしている司令官の親が死ぬと、仕事を放り出して田舎に帰って喪に服します。これが正しい態度です。

「国家存亡の折に喪など服せるか」として司令官の地位に留まったら、非難が集中して結局免職になってしまいます。

このような儒教の考えが背景にあるのがチャイナの律令体制です。

上記から分るように、日本人には儒教の道徳は入っていません。千年以上にわたって儒教を学んだように見えます。

しかし実際は「わずかにかすった」程度にしか影響を受けていません。

この儒教の原則から律令という法律が制定されました。

律は刑法、令は行政法です。

天武天皇の朝廷はこの律令を日本に導入したのです。

チャイナとはまるで異なる社会の日本に律令制を導入したので、大混乱が起きました。

当時の唐は科挙があり、官僚は儒教を身につけた教養人から採用しました。

もっとも、唐は貴族社会でしたから一方で貴族の子弟を無試験で官僚にしましたが、理想は科挙による官僚制でした。

しかし日本には儒教を身に付けた教養人などいませんから、従来の有力氏族をそのまま官僚にしようとしました。

彼らにしても少しぐらい儒教を書物で勉強しても、文化的背景がまるで違うので、その本質を理解できるわけがありません。

そのため儒教道徳による政治という律令の原則は、日本に根付きませんでした。

思想というレベルの話ではなく、漢文で書かれた法律が読めるかというレベルに達した者を考えても、都に少数がいるだけでした。

従って地方では法律の基づく政治ではなく、官僚の恣意的な判断で勝手なことが行われました。

戸籍の作成により百姓の動向を把握して、土地を支給し年貢を徴収し、兵役を課そうとしました。

しかし以前このブログで説明したように、当時は土地を求めて頻繁に住居を変えるのが普通でしたから、ちゃんとした戸籍を作ることができませんでした。

男が女のところに通う「通い婚」も普通でしたから、女だけの戸籍がやたらと多くなったのです。

女には土地は支給されますが、兵役や労役は課されなかったのです。

農民に支給する土地は、ちゃんとした水田を支給するのが原則でした。

しかし当時は水田のほかに畑や焼畑が多かったので、百姓全員に支給するべき水田は大幅に不足していました。

従来の有力氏族の土地は、国家で没収しその代わりに税の一部を支給するという建前にはなっていました。

しかし最近の研究では、有力氏族は素直に土地を国家に引き渡さなかったようです。

結局百姓にしてみれば、満足に土地が支給されないのに税金だけは取られるという最悪の状態になってしまいました。

こうなれば、有力氏族に食糧と住むところを提供してもらって、農地を開墾するほうがましでした。

その土地が国家に没収されれば、そこを逃げ出し新たな土地を開墾するのでした。

このようなイタチゴッコの末、開墾地は私有して良いことという法律がでました。

このように律令制度の原則は、全て上手くいきませんでした。
律令制度は導入した途端に破綻したのです。

新たに王朝を創設した天武天皇とその子孫が、その支配を安定させるために編纂したのが日本書紀です。

その主張を要約すれば下記になります。

日本は紀元前660年の神武天皇即位以来、常に統一された国家があった。

その国家は、天上から来た神の子孫である万世一系の天皇家によって統治されている。

日本の建国は、チャイナやコリアの影響を受けていない。

この主張の為に多くのことが捏造されています。

倭国王の地位が何回も血縁関係にない有力者の間を移ってきたことは以前にも説明しました。

しかし、万世一系のつじつまを合わせるために、初代から九代の架空の天皇を作り出しました。

その後も血縁関係に無い倭王家の系図と天皇家の系図を継ぎ合わせています。

天皇家の正統性を間接的に裏付ける神話も多く捏造されています。

日本書紀では、大国主命が王だった出雲は強大な王国で、天皇家の先祖は非常な困難の末に征服したことになっています。

しかし実際の出雲は人口の少ない弱小県で、古墳も貧弱で日本の覇権を争うような実力は昔も今もありません。

天上から天下ってきた天皇家は四道将軍を各地に遣わし、日本全土を征服したと日本書紀に書いてあります。

しかし具体的にどこを征服したとは書いていません。

そこで天皇家が征服した地域の例を挙げるために出雲神話を捏造したのです。

スサノオと妻のクシナダヒメは、もともとは出雲の山奥の小盆地の神様だったのです。

日本書紀の中では日本の有力な神社がすべて天皇家の先祖を祭ってあるとしています。

しかしこれも捏造です。

伊勢神宮は天武天皇が壬申の乱の折、戦勝を祈願したところ効果があったので、重要視され天皇家の祖先を祭っている社とされたのです。

尚、日本書紀と並ぶ古典として重視されている古事記は偽書です。

平安時代に古事記の編集者とされている太安万侶の子孫が、自己の家系を誇るために作ったものです。

これに関しては鳥越憲三郎教授が「古事記は偽書か」で論証されています。

事実を捏造しても、権力で反論を封じ時間が経てば、やがて事実として誰も疑う者がいなくなってしまいます。

これも本当の歴史を分らなくさせる原因のひとつです。


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